振武台からの流れで、1

では、先日の振武台記念館に行った流れで死んだオヤジから聞いた士官学校での事を書きましょう。
振武台からの流れで、1

正式には陸軍予科士官学校(61期)で士官学校の前段階です。
しかも在学中に終戦になったので本当は卒業してません。
一応”卒業“ってことになり終戦後20年以上経って卒業証書が来ました。
だから60期以前のちゃんと卒業した人達からは疎まれているそうです。
ま、地方に疎開した60期の人達は空襲で学校が戦場になった事を体験しては居ない訳ですが・・・。
(コレはまた別に書きましょう)

長野の田舎者のオヤジがどうしてココに来たのかは判りません。
まぁ親が(私からは爺さん)陸軍軍曹ですでに昭和14年に中国で戦死しているので、軍人になるのは当たり前に考えていたのかも。
ちなみにオヤジの兄もどこかの士官学校に行っていたそうだが詳しく聞いてない。
ただ長男だったので婆さんのコネで内地勤務が決まっていたそうだ(笑)。

61期の特徴的なのは皇族が生徒に居た事でしょうか。
振武台からの流れで、1
中に内飾ってあった写真です。

当時皇族男子は陸海どちらかの士官学校に行かねばならず、陸軍を選んだようだ。
「宮様」と呼んでいたみたい。
学校教官は「は、殿下なんであらせましょうか?」みたいにかなり遜っていたし
直接会話もいけない?場面も有ったららしく、隣に居たオヤジが言葉を伝えるなんてこともあったようだ。
ただ生徒間はふつうに会話していたらしい。
訓練も一緒。
(九二式重機関銃を一緒に撃ったなんて言っていた)
ただこの方が・・・・凄く“戦争の訓練”を嫌がって学校を抜け出す事ばっか考えていたとか(笑)。
さすがに皇族だけ有って乗馬は上手かったそうです。

良く覚えていないけど教官か食事に不満が有って
「お前の立場でアレをなんとかしろよ」
「いや、それはちょっと・・・」
なんて事も有ったらしく、素の若者は今も昔も変わらないのだなぁと思った。
まだインドネシアかどこか東南アジアの方でご存命だそうだ。
(追記:この時は説明の自衛官にこう聞いたが、調べたら随分前にブラジルに帰化してました)

3点バースト・・・銃に興味が有ると今じゃ当たり前に聞きますが、当時機関銃の訓練では『3点点射』と言っていたと。
「機関銃は揺れるから狙った所に届くのは最初の3発だけだからそう言う撃ち方をした」
とは子供の頃から良く聞かされました。
だから大人になって“3点バースト”って聞いた時は“いまさら??”なんて思ったりしました。
ちなみにオヤジには機関銃=ベルト給弾という観念は無く、機関銃=板弾倉でした(笑)。
九二式しか扱わなかったのかな?

振武台記念館中に有った各期の当時のエピソードや解説の一部。
振武台からの流れで、1
この『対戦車肉薄攻撃訓練』中に同級生が戦車に敷かれたって話はオヤジから良く聞いた。
地雷か火炎瓶付ける訓練だったんだよね。
結果、手の施しようも無く、病室で同級生達と二時間軍歌を歌いながら死んで行ったと言う。
壮絶な学校だなぁ。
大体、肉薄攻撃って士官候補生のやる訓練とは思えない。
切迫した状況が伺えます。
使っていた戦車は鹵獲した米軍のM4シャーマンだったと言ってました。
私は「日本の当時そんな余裕は無いだろ」と突っ込んだのだが
「M4だ!」って最後まで言い張ったので・・・真相は判りません。

学生は階級的には『兵』と『下士官』の間になります。
一等兵、二等兵より上で兵は皆敬礼してきたそうだ。
実家には階級章と制帽だけが残ってます。
(先に死んだ爺さんの制帽と勲章も)

こんな所かなぁ・・・お袋はもっと聞かされているんじゃないかと思うのだが、いかんせん興味が全く無いので右から左に抜けているんで覚えていないんだよな。
ただあまりこの頃の思い出を話したがらない部分も有ったので、必ずしもいい思い出ではなかったかな?
急な終戦で気持ちも折れ、実家に帰って社会復帰に一年程かかってました。
(頑固な昔の人は、弱い部分を中々話そうとしないんで・・・)

ちなみにオヤジは痴呆が始まる前(5年くらい前?)まで「いつかアメリカに原爆の仕返しをする!」って言ってました(笑)。

空襲の件はまた後日。




タグ :自衛隊資料

同じカテゴリー(振武台)の記事画像
振武台からの流れで、2
広報センター行って来た
同じカテゴリー(振武台)の記事
 振武台からの流れで、2 (2010-07-21 17:36)
 広報センター行って来た (2010-07-17 23:45)

2010年07月20日 Posted by マール  at 00:53 │Comments(6)振武台

この記事へのコメント
祖父が陸軍豫科士官学校の61期生で、祖父の青春時代のことを少しでも知りたくて色々なホームページを拝見する中でこちらのブログにたどり着きました。
私の知らないことが多くあり、本当に参考になりました。

祖父は生前、士官学校の話をボソボソと話し、夜中に急に起こされて池で泳がされたりもした…なんて話をしていたことを思い出しました。
頑固で厳しい部分もあった祖父ですが、孫の私は本当に可愛がってもらい大切にされてきました。
そんな祖父の性格を形成したのがきっとこの学校での教育だったのだと思います。

ブログに書かれている振武台記念館へ私も一度伺いたいと思います。
祖父の軍服姿の写真などは戦時中の火事で焼けて1枚もないので、その当時の人たちの写真から、祖父の面影を探したいと思います。
このような貴重なお話を書いて下さり、本当に有難うございました。
Posted by 参考になりました at 2015年11月18日 17:15
参考になりまし さん
ご覧頂きありがとうございます。
なんとうちの親父と同期ですか!
予科士官学校についてはネットで調べても判らないんですよね。
オヤジの言っていた事は脚色も付いていた所も有ると思います。
が、確かめる手だても無くて・・・
61期生で存命な方もまだいらっしゃるそうですが、いかんせんお歳で記憶が食い違ってどんな事が有ったとかがまとまらないと案内の自衛官が言ってました。
振武台記念館の見学は今はもっと頻繁に行けるようですね。
当時の在校生全員の名前が壁に並んでますから探してみてください。

ちなみに上記の元皇族の方(ブラジルに帰化してました)はこの春に亡くなりました。
一度同級生の一人が“ブラジルに行くからあいつに会って来る”とい事で、同級生が集まって羽田まで見送りに行った事が有るそうです。(お袋、談)
Posted by マールマール at 2015年11月23日 02:58
マールさま

お返事ありがとうございます。
そうなんです…
ネットに情報が少なくて、悪戦苦闘しておりました。
今年の9月に祖父が亡くなり、まだ気持ちの整理がつかない中もっと話を聞いておけば良かった…との後悔と同時に、祖父のことを知る必要があると思い色々と調べる中でこちらのブログに辿り着きました。
こうしたことも何かの縁のように感じてしまい本当にうれしく思っております。

祖父が生きていた頃に、一度、豫科士官学校のことを調べてあげたことがあり、同窓会の集いに参加された方と連絡が取れて同窓会名簿を送っていただいていたことを思い出し、先日その名簿を見てみたら同窓生の豫科士官学校時代の所属していた隊、氏名、住所が記載されていました。

祖父は第28中隊第1,2区隊に所属していたようで、そこの隊に長野出身の方のお名前が載っていて、もしかするとマールさまのお父さまと同じ隊だったのでは?などと思い、物思いにふけっておりました。

祖父は戦後のゴタゴタで、ブログに書かれていますような卒業証書を受け取っていないようです。
孫の私としましては、今からでも祖父の生きた証を残したいので再発行・・・もしくは書類でも良いので何か頂きたい・・・などと思ってしまいますが、そのようなことを言える立場でもないので、何だかもどかしい気持ちになっております(;´・ω・)

あ!申し訳ありません。
長々とコメントを書いてしまいました。

最近は寒くなってきましたので、くれぐれもご自愛下さい。
Posted by maco at 2015年11月30日 23:08
maco さん
少しでも参考になったのであればうれしいです。

私ももう少し当時の事を聞いておけばよかったなと思います。
一部のかっこいいネタだけはよく話していたので、そうでない部分はあまり聞けなかったので。
(だから終戦50年の時、少々聞き出したのですが)

4〜50年前、士官&予科士官学校の全卒業生名簿みたいなかなりゴツいアルバムが出てまして、それになら写真も名前も判るかな?
実家に有るので今度確認してきます。

うちのオヤジは第1中隊の3・4区隊だったようです。
http://kazuyoshiimuro.jp/chapter1/story_01_04.html
まさに同じ隊の方のHPが有りました。

卒業証書に関しては、どういう経緯で発行されたのかよくわからないんですよ・・・お袋に聞いてみます。

その卒業アルバムみたいなのは近年、古本屋(ブックオフ含む)や古本市で見かける事が多くなりました。
持ち主が亡くなって整理されていると思われます。
Posted by マールマール at 2015年12月01日 02:48
マールさま
お返事ありがとうございます。

そうですよね。
私も、もっと聞いていれば良かったと思っております。
先日、同窓生名簿と共に祖父が生前残していた自分自身の生い立ちから現在に至るまでの手記が出てきました。
そこには戦時中のことや豫科士官学校時代のことも書いているようで、本にする計画が出てきています。
祖父の達筆な字は私には到底読めないので、いつになるか分かりませんが本に出来次第、その当時のことで分かった部分などがあればお伝えできたら・・・と思っております。

アルバムがあったとは知らなかったです。
祖父もきっと知らずに居たのだと思います。
生前、豫科士官学校時代の写真が1枚も無いことを残念に思っていたようなので、アルバムに写真が残っていると嬉しいのですが・・・
またお時間のあるときにでも確認していただけたら幸いです。

HP参考になりました。
写真も載っていて当時の雰囲気が感じとれますね。
祖父もあのような状況下で生活をしていたのかな?と思いながら読ませて頂きました。

卒業証書につきましても、お時間のあるときで構いませんので、お母さまに聞いていただけたら幸いです。
本当にありがとうございます。

何もわからない状況の中から、こうした新しい情報を教えていただけて、私、そして家族一同嬉しく思っております。

来週、祖父の社葬(お別れ会)を行うことになり、士官学校の校歌を当日流してもらおうと計画しております。

それまでに手がかりが欲しくて、教えていただいたとおり古本の検索をしてみたら、ヤフオクで『大武蔵野の野嵐に 昭和二十年振武台の記録 陸軍予科士官学校』著者:佐々木三郎がヒットし、同窓生名簿から豫科士官学校の61期生の方が書かれた本のようで購入してみました。
何か手掛かりが見つかると良いのですが…
新たな情報がありましたら、またお知らせ致します。
Posted by maco at 2015年12月02日 23:05
2016年1/9の記事に士官学校の本を載せておきました。
他の資料をまた探してみます。
Posted by マールマール at 2016年01月09日 20:10
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。