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 Posted by ミリタリーブログ  at 

ちょっと調整

ガリルSARです。

まだ本体は手つかずです。
コレに使う為、スターのAKマガジンを加工しました。

給弾口の周りのふちを削ってみました。
もうちょっとの所でちゃんと銃にハマりません。
マガジンの引っかけをほんのちょっと削りました。

マルイのAKマガジンだとガッツリ削らないと行けない所ですが
コレは最初から薄いのでちょっと削るだけです。

ちゃんとハマるようになりました。
ただまだ試射すらしてません(汗)。  


2010年07月20日 Posted by マール  at 19:33Comments(0)ガリル

振武台からの流れで、1

では、先日の振武台記念館に行った流れで死んだオヤジから聞いた士官学校での事を書きましょう。


正式には陸軍予科士官学校(61期)で士官学校の前段階です。
しかも在学中に終戦になったので本当は卒業してません。
一応”卒業“ってことになり終戦後20年以上経って卒業証書が来ました。
だから60期以前のちゃんと卒業した人達からは疎まれているそうです。
ま、地方に疎開した60期の人達は空襲で学校が戦場になった事を体験しては居ない訳ですが・・・。
(コレはまた別に書きましょう)

長野の田舎者のオヤジがどうしてココに来たのかは判りません。
まぁ親が(私からは爺さん)陸軍軍曹ですでに昭和14年に中国で戦死しているので、軍人になるのは当たり前に考えていたのかも。
ちなみにオヤジの兄もどこかの士官学校に行っていたそうだが詳しく聞いてない。
ただ長男だったので婆さんのコネで内地勤務が決まっていたそうだ(笑)。

61期の特徴的なのは皇族が生徒に居た事でしょうか。

中に内飾ってあった写真です。

当時皇族男子は陸海どちらかの士官学校に行かねばならず、陸軍を選んだようだ。
「宮様」と呼んでいたみたい。
学校教官は「は、殿下なんであらせましょうか?」みたいにかなり遜っていたし
直接会話もいけない?場面も有ったららしく、隣に居たオヤジが言葉を伝えるなんてこともあったようだ。
ただ生徒間はふつうに会話していたらしい。
訓練も一緒。
(九二式重機関銃を一緒に撃ったなんて言っていた)
ただこの方が・・・・凄く“戦争の訓練”を嫌がって学校を抜け出す事ばっか考えていたとか(笑)。
さすがに皇族だけ有って乗馬は上手かったそうです。

良く覚えていないけど教官か食事に不満が有って
「お前の立場でアレをなんとかしろよ」
「いや、それはちょっと・・・」
なんて事も有ったらしく、素の若者は今も昔も変わらないのだなぁと思った。
まだインドネシアかどこか東南アジアの方でご存命だそうだ。
(追記:この時は説明の自衛官にこう聞いたが、調べたら随分前にブラジルに帰化してました)

3点バースト・・・銃に興味が有ると今じゃ当たり前に聞きますが、当時機関銃の訓練では『3点点射』と言っていたと。
「機関銃は揺れるから狙った所に届くのは最初の3発だけだからそう言う撃ち方をした」
とは子供の頃から良く聞かされました。
だから大人になって“3点バースト”って聞いた時は“いまさら??”なんて思ったりしました。
ちなみにオヤジには機関銃=ベルト給弾という観念は無く、機関銃=板弾倉でした(笑)。
九二式しか扱わなかったのかな?

振武台記念館中に有った各期の当時のエピソードや解説の一部。

この『対戦車肉薄攻撃訓練』中に同級生が戦車に敷かれたって話はオヤジから良く聞いた。
地雷か火炎瓶付ける訓練だったんだよね。
結果、手の施しようも無く、病室で同級生達と二時間軍歌を歌いながら死んで行ったと言う。
壮絶な学校だなぁ。
大体、肉薄攻撃って士官候補生のやる訓練とは思えない。
切迫した状況が伺えます。
使っていた戦車は鹵獲した米軍のM4シャーマンだったと言ってました。
私は「日本の当時そんな余裕は無いだろ」と突っ込んだのだが
「M4だ!」って最後まで言い張ったので・・・真相は判りません。

学生は階級的には『兵』と『下士官』の間になります。
一等兵、二等兵より上で兵は皆敬礼してきたそうだ。
実家には階級章と制帽だけが残ってます。
(先に死んだ爺さんの制帽と勲章も)

こんな所かなぁ・・・お袋はもっと聞かされているんじゃないかと思うのだが、いかんせん興味が全く無いので右から左に抜けているんで覚えていないんだよな。
ただあまりこの頃の思い出を話したがらない部分も有ったので、必ずしもいい思い出ではなかったかな?
急な終戦で気持ちも折れ、実家に帰って社会復帰に一年程かかってました。
(頑固な昔の人は、弱い部分を中々話そうとしないんで・・・)

ちなみにオヤジは痴呆が始まる前(5年くらい前?)まで「いつかアメリカに原爆の仕返しをする!」って言ってました(笑)。

空襲の件はまた後日。  
タグ :自衛隊資料


2010年07月20日 Posted by マール  at 00:53Comments(6)振武台