振武台からの流れで、2


予科士官学校も空襲されたそうです。

この話はオヤジがあまり話したがらなかった事で、確か終戦60周年の年に
「そういや士官学校って空襲受けなかったの?」って聞いたら
「有ったよ」って話してくれました。

当日オヤジは同級生と二人で夜の社の警備当番だったそうです。
この社なのか?

オヤジは天皇陛下を奉った社と言っていた気がする。

こういう場所なので当然直立不動で当番なのだが・・・

ドカンドカンと爆弾が落ちてくるのがどんどん迫って来て
同級生と「どうする、どうする?」と顔を見合わせビクビクしたそうです。

そしたら直ぐに退避途中の教官が通りがかり
「バカ、早く隠れろ!」と言われ“それ!”って逃げたそうです。
「逃げる途中頭上を黒い陰がよぎった。すぐに後ろで爆発が有った」って。

この爆撃で同じ村の3件横の家から来た同級生が爆死したと。
「見た目はかすり傷だけの奇麗な遺体だったけどねー」
ぶっとい丸太が30mくらい吹き飛ばされ、それと一緒に飛ばされていたとか。

上ではB29と日本の迎撃機の戦闘が確認出来たみたいです。
迎撃のため日本軍の迎撃機も上がったのですが、被弾した一機の陸軍の迎撃機が桶川の海軍飛行場の方に(多分今のホンダエアポート?)降りて行くのが見えたそうです。
が、その被弾した機を桶川の飛行場は高射砲を撃って追い返したそうです。

どんだけ陸軍と海軍が仲が悪かったのかと・・・。

追い返された機は士官学校の方にきて敷地に不時着しひっくり返ったそうです。
“それっ!”って生徒達は助けにかかり飛行機を起こしたそうです。
「操縦席は○○中尉って結構有名な名物教官で後ろは訓練生だった。訓練生は即死だったけど教官は助け出そうとハッチ開けたら『チクショー!!』って叫んでそのままばたんと死んだ」と。
壮絶だなぁ。
この将校の名前を言っていたんですが忘れました。

聞いたのはこんな所です。

この爆撃はWikでみたら予科士官学校への爆撃は誤爆とありました。
でも別の所では予科士官学校と近くの迎撃機用飛行場を狙ったものとも有りました。

あと、当時予科士官学校敷地内に天皇陛下を奉った社は無かったかもしれません。
あくまでオヤジから聞いた話を私が覚えている限りなので。
この話はイヤな思い出なのかこのとき一回しか聞きませんでした。

余談ですが、この当時家族への戦死の報告は異常に早かったそうです。
同じ村から来た同級生が亡くなったので、オヤジは慌てて「自分は無事」みたいな手紙を実家に送ったそうだ。
その同級生の家に死亡通知が来たのを知り、実家の家族は「じゃあうちもダメだー」って構えていたそうです。
3日後位後に無事な手紙が来てホッとしたとか。
この時の心境は「気が気じゃなかった」と、オヤジの兄妹で唯一生きている伯母さんから聞きました。

長々と書きましたが、ちょっと思う事があります。
朝霞の駐屯地の振武台記念館は基地内の隊員や生徒も殆ど中を見ていないそうです。
あそこが“予科士官学校だった”という事実以外に、まぎれも無く“戦場だった”という事実が伝わっていないのはどうかと思うんですよ。
いざと言う時に対して覚悟を学ばせないって、それでイイのかと・・・。

個人的にはまだご存命な方は多いようなので、もう少し事実を知りたい所なんですけどね。  
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2010年07月21日 Posted by マール  at 17:36Comments(0)振武台

振武台からの流れで、1

では、先日の振武台記念館に行った流れで死んだオヤジから聞いた士官学校での事を書きましょう。


正式には陸軍予科士官学校(61期)で士官学校の前段階です。
しかも在学中に終戦になったので本当は卒業してません。
一応”卒業“ってことになり終戦後20年以上経って卒業証書が来ました。
だから60期以前のちゃんと卒業した人達からは疎まれているそうです。
ま、地方に疎開した60期の人達は空襲で学校が戦場になった事を体験しては居ない訳ですが・・・。
(コレはまた別に書きましょう)

長野の田舎者のオヤジがどうしてココに来たのかは判りません。
まぁ親が(私からは爺さん)陸軍軍曹ですでに昭和14年に中国で戦死しているので、軍人になるのは当たり前に考えていたのかも。
ちなみにオヤジの兄もどこかの士官学校に行っていたそうだが詳しく聞いてない。
ただ長男だったので婆さんのコネで内地勤務が決まっていたそうだ(笑)。

61期の特徴的なのは皇族が生徒に居た事でしょうか。

中に内飾ってあった写真です。

当時皇族男子は陸海どちらかの士官学校に行かねばならず、陸軍を選んだようだ。
「宮様」と呼んでいたみたい。
学校教官は「は、殿下なんであらせましょうか?」みたいにかなり遜っていたし
直接会話もいけない?場面も有ったららしく、隣に居たオヤジが言葉を伝えるなんてこともあったようだ。
ただ生徒間はふつうに会話していたらしい。
訓練も一緒。
(九二式重機関銃を一緒に撃ったなんて言っていた)
ただこの方が・・・・凄く“戦争の訓練”を嫌がって学校を抜け出す事ばっか考えていたとか(笑)。
さすがに皇族だけ有って乗馬は上手かったそうです。

良く覚えていないけど教官か食事に不満が有って
「お前の立場でアレをなんとかしろよ」
「いや、それはちょっと・・・」
なんて事も有ったらしく、素の若者は今も昔も変わらないのだなぁと思った。
まだインドネシアかどこか東南アジアの方でご存命だそうだ。
(追記:この時は説明の自衛官にこう聞いたが、調べたら随分前にブラジルに帰化してました)

3点バースト・・・銃に興味が有ると今じゃ当たり前に聞きますが、当時機関銃の訓練では『3点点射』と言っていたと。
「機関銃は揺れるから狙った所に届くのは最初の3発だけだからそう言う撃ち方をした」
とは子供の頃から良く聞かされました。
だから大人になって“3点バースト”って聞いた時は“いまさら??”なんて思ったりしました。
ちなみにオヤジには機関銃=ベルト給弾という観念は無く、機関銃=板弾倉でした(笑)。
九二式しか扱わなかったのかな?

振武台記念館中に有った各期の当時のエピソードや解説の一部。

この『対戦車肉薄攻撃訓練』中に同級生が戦車に敷かれたって話はオヤジから良く聞いた。
地雷か火炎瓶付ける訓練だったんだよね。
結果、手の施しようも無く、病室で同級生達と二時間軍歌を歌いながら死んで行ったと言う。
壮絶な学校だなぁ。
大体、肉薄攻撃って士官候補生のやる訓練とは思えない。
切迫した状況が伺えます。
使っていた戦車は鹵獲した米軍のM4シャーマンだったと言ってました。
私は「日本の当時そんな余裕は無いだろ」と突っ込んだのだが
「M4だ!」って最後まで言い張ったので・・・真相は判りません。

学生は階級的には『兵』と『下士官』の間になります。
一等兵、二等兵より上で兵は皆敬礼してきたそうだ。
実家には階級章と制帽だけが残ってます。
(先に死んだ爺さんの制帽と勲章も)

こんな所かなぁ・・・お袋はもっと聞かされているんじゃないかと思うのだが、いかんせん興味が全く無いので右から左に抜けているんで覚えていないんだよな。
ただあまりこの頃の思い出を話したがらない部分も有ったので、必ずしもいい思い出ではなかったかな?
急な終戦で気持ちも折れ、実家に帰って社会復帰に一年程かかってました。
(頑固な昔の人は、弱い部分を中々話そうとしないんで・・・)

ちなみにオヤジは痴呆が始まる前(5年くらい前?)まで「いつかアメリカに原爆の仕返しをする!」って言ってました(笑)。

空襲の件はまた後日。  
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2010年07月20日 Posted by マール  at 00:53Comments(6)振武台

広報センター行って来た

先日オフ会で行ったばかりですがまた行きました。
しかもお袋連れで。
今日は普段解放されない振武台記念館・・・昔の士官学校の資料館が見学出来るからです。
今回は午前、午後各40名のみ。

死んだオヤジも士官学校生(最後の61期)でした。
去年、私一人では行ったのですが一応オヤジの名前なんかも名簿に有って、その話をしたらお袋も「行ってみたい」と言うので連れて行きました。
本当はお袋の友達でやはり旦那さんが士官学校生(60期)だったというおばさんも連れて行くはずでしたが予定が合わず無理でした。

朝から行ったのですがちょっと遅く着いて午後からの見学になり2時間半程待つなめになりました。

外の展示車両は塗装し直しで見る所がねぇー。

網の隙間から中を撮った。

さび止めまでしてありますねー。

1時になって“まもる君”先導で基地の敷地内に入って振武台記念館向かいました。

まぁそこでの件とオヤジから聞いた当時のエピソードなんかを月曜位から書きましょうかね?
(今ちょっと時間がない)  
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2010年07月17日 Posted by マール  at 23:45Comments(2)振武台